2011年02月20日

SEEDAと小室哲哉

罪と音楽



小室哲哉「罪と音楽」を読んだあと、
SEEDAのラップを聴く。
この組み合わせになってしまったのは、
偶然でしかない。
だが考えさせられる。
両者の間には遠く隔てているものと、
同じものがあると思った。

遠いものは存在のありかた。
存在を色で示すと、
小室哲哉はパステルカラーだ。
大衆という額の中に描かれる水彩画である。
SEEDAは原色だ。
大衆にぶちまかれる現代アートである。
どちらが良い悪いという話しではない。

音楽という絵筆を使うのは同じだ。
SEEDAの方が個人的な表現をするぶん、
現代的な音を鳴らしていると思う。
小室哲哉の、
自分の魂をのぞきこんで、
そこに大衆が見えるという構造も、
ある時代には現代的だった。

世代のちがいもあるだろうし、
景気や社会背景のちがいもある。
だけどふたりは音楽という同じ公園にいた。
小室哲哉はシーソーやブランコがなかったから、
それらを用意して、緑を植えて、
みんなで遊ぼうと言った。
SEEDAはそんなものなくても、
いきなりこちらの手を握りしめ、
ゲームをスタートさせる。
なんのゲームかわからないままに。

ふたりをつなげて考えるのは無理があったかも。
だけど、目の前に小室哲哉の本があり、
SEEDAの音楽があった。
ふたりの存在が俺の頭のなかで並んだときに、
何かグワッとたちあがるものがあった。
それはなんだと考えると、
音楽にたずさわる人間の、
音楽への愛ってやつだと思う。
誰もが持っているはずなのだが、
それを掲げるのには勇気がいる。
形はちがうが、
勇気という部分でも共通するものを感じた。

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2011年02月19日

ハスラーラップについて



ゼロ年代の音楽---壊れた十年

「ゼロ年代の音楽 壊れた十年」を読んでいたら、
磯辺涼氏がこれから日本語ラップを聴くならば、
ハスラーラップを聴くといいと書いてあるのを見つけた。
J HIPHOPの迷路のまえで、
まさに俺が探していたアドバイスだ。
磯部氏どうもありがとうございます!

さっそくSEEDAをネットでチェックしたら、
久しぶりにズドンと来た。
心にガツンと来たのだ。
これはCDを買ってじっくり聴きたい。
何がそんなに心を動かされたのか?
まだ数曲しか聴いていないので細かく言えない。
いろいろ日本語ラップを試聴していて、
求めているものがないと思ったものがあった。
そのことはまたアルバムを聴きこんで書きたい。

俺はいたって平和な日常を過ごしてきた。
むしろハスラーはRである。
Rは路上で金を稼ぎ、
色んなひと(細かく書かないがまさに色んなひと)との
コミュニケーションの中で自分を形成してきた。
路上を離れた今でも警察を見るとビクッとしているし。
念のために言っておくとドラッグとは関係ない。
(だがRは自分の中での正当な目的の為ならば、
 どんな商売もプロフェッショナルにやり遂げるだろう。)
つまりRが聴くべき音楽なような気もするが、
意外と本人はミニマル・テクノ的なものが好きだ。

Rの短歌集「OVER DRIVE」も、
ハスラーラップと通じるところがあるような気が。
OVER DRIVE (詩歌句双書)

話しはもどるが、
とてもエッヂーとは呼べない生活を送る俺が、
なにゆえこの音楽に惹かれるのか。
次はそれを書こうと思う。
(これ自分に言っている。)

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2011年02月18日

ピエール瀧について

電気グルーヴのメロン牧場―花嫁は死神

Rのi phone熱はとどまるとこを知らず、
1日中小さな板をながめつづけている。
さまざまな音楽アプリを見つけてきては
試しているようだ。

DJをしてみせてくれたが、
これがなかなかおもしろかった。
ブレイクビーツ、
ダブ・ステップなど、
リズムを変えながら、
(ワンフレーズの)ヴォーカルをはさみつつ、
効果音も鳴らす。
聴きごたえがあった。
1時間くらいのDJであればいけるだろう。

「R、それで(i phoneで)DJしろよ」
Rにすすめて、では俺は何をしようかなと思った。
歌が特別うまいわけではないし、
ダンスだって出来るわけじゃないし、
時々ライムをのせるくらい。
そう考えると、ピエール瀧ってすごいよなと思う。
ピエール瀧という存在だけで、
2時間、3時間のステージをもたせるのである。
そこまでの人間ってなかなかいない。
“自分が自分である”という説得力、
それをエンターテイメントとして成立させる。
どんなアーティストでもなかなか
実現が難しいパフォーマンスを、
飄々とやってのけるのである。

ピエール瀧は自分の行っている活動で
どんな評価や見返りを求めているのだろう。
もちろんギャラだろうが、
パフォーマーとしての理解のされ方や、
“遊んでいるひと”としてのリスペクトや、
つまり自分のやっていることに対しての、
周りからの評価を気にしたりしているのだろうか。
そんなこと気にしていないのだろうな。
周りがどう思うかなどの
レベルを越えたところにいかないと、
あのピエール瀧のステージングは無理だろう。
自分に対しての圧倒的な肯定だ。
それは世界すべてに対しての肯定でもある。
だからみんな瀧を観ているだけで盛りあがるのだ。
嬉しくなって。

ピエール瀧の存在は
究極のポジティヴィティであり、
これからの時代を生きる人間に
もっとも必要とされる精神の在り方を体現している。

自由というのはカテゴライズを拒む。
何者かになろうとしている限り、
不自由なのである。
言葉でいうのは簡単だけど、
ピエール瀧の領域にまでいくのには、
それ相応の肝っ玉のすわり方が必要である。
まず、こんなウナウナと、
ブログで語っている俺はダメだ。
でも、それも否定してはいけない。
それが俺だから。

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2011年02月17日

Rがi phoneを買った。

Moment
(atomic tomというバンドで電車内で
 I phoneで演奏している映像が面白い)

Rがi phoneを買った。
で、ひたすら何をしているかというと、
音楽のアプリを鳴らしつづけている。
その姿はDJというよりも、
ゲームに夢中の小学生のようだ。

俺もいじらせてもらったが、
これはたしかにはまる。
もう携帯電話というよりも、
楽器である。
コンピュターである。
今さら何言ってんだと思うかもしれないが、
俺は(驚かれ、あきれられるが)携帯を持っていない。
今までも、
これからも必要ないと思っていたが、
Rのi phoneを観て欲しくなった。

Rがテクノ系のアプリを読みこんで、
演奏しているのに俺のライムをのせたりして、
この携帯電話1台でライヴ環境が生まれる。
すごい進化だ。
お前いつの時代の人間だと思われるかもしれない。
だけど、音のクリア具合や、
ディレイやその他のエフェクトのかかりよう、
なにより簡単な操作性を試すと、
音楽は万人のもので、
問われるのは直感的な創作性だ! 
と、思い興奮しているのだった。

Rがi phoneに話しかけて、
それが文字化しているのにも驚愕した。
これで頭の中の歌詞やライムを即文字化し、
保存しておくことも可能だろう。
Rはそれでメールを送ろうとして、
すべて消去してしまったが。
(手で打ち直していた。)

こうなってくると、
音楽はコンピュターにしろ、
楽器にしろ、訓練された技術よりも、
そのセンス、フレッシュさを問われる。

もちろん訓練された技術の素晴らしさも、
俺は大好きだ。
例えばリトル・バーリーのシンプルであり、
深みのあるロックは人間くささがある。
ジャズとかラテンとか、
クラッシックにしても、
コンピュターでは再現不可能な領域があると思う。
でも今の俺にとって、
i phoneで演奏しているRの姿は、
とても風通しのよいものだ。
未来への窓があいている。
(「腱鞘炎が痛い!」
とか言いいだしそうな勢いでもあり心配だが。)

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ラベル:i phone
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2011年02月16日

人生の放課後

Kind of Blue スタンディング・イン・ザ・ウェイ・オブ・コントロール

スカパーの大人のミュジックエアで
マイルス・デイヴィスの
モントリオールコンサートをやっていた。
MTVにチャンネルを回すと、
ゴシップのライブである。
両方とも同じテンションの高さで、
ミュージシャンも観客も気持ち良さそうだった。

ライブやクラブの気持ち良さというのは、
アドレナリンが脳を覚醒させるからかな。
(意味不明なことを言ってる?)
だからその時に気づいたことって、
人生の本質をついているのかもしれない。
無我の境地で気づくことっていうか。

俺はジョシュ・ウィンクか、
リッチー・ホウティンのどちらかで、
踊りつづけているとき、
軽い瞑想状態に入ったことがある。
その瞬間、思った。
『もう学校に行くのはやめよう』
学校なんてとっくに行ってないのに。

あれはなんだったんだろう。
仕事のことか。
それとも受動的な生き方をやめて、
能動的にならなくてはだめだということか。
学校…。
深く考えなかったことだが、
こうして覚えているということは、
自分の中で気になっていたのだ。

たしかに俺はずっと
学校に行っている気分かもしれない。
音楽を聴いていても、
Rみいたにシンプルに感覚的に聴くのではなく、
なにかをつねに考えている。
音楽の歴史とか、
聴いているミュージシャンの生きざまとか、
音の構造など。
学ぶ姿勢は大切だけど、
なぜ学んでいるのか?
最終的には自分から発するところに
行き着かなければ意味がないのかもしれない。

俺はバンドをやっていたけれど、
観客を興奮させたことなんて一度もなかった。
映画も作ったことがあるけど、
観客全員あまりの退屈さに激怒した。
俺の人生の課題って、
エンターテイメントなんじゃないか?

アークティック・モンキーズの1枚目とか、
similabのHIPHOPとか、
十代でふっきれの良い作品を作ったひとたちのことを
最近よく考える。
若くしてプロフェッショナル。
エッヂのある作品こそがエンターテイメントだと思う。

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2011年02月15日

ジャスティン・ビーバーが好きだ。

マイ・ワールズ~デラックス・エディション

ジャスティン・ビーバーが日本に来る。
観たいかと言われれば、
べつに観たくはない。
だが、ジャスティン・ビーバーは好きだ。
声に音楽に対する真摯な姿勢を感じる。
雑念がないというのか。
本当はジャスティンはとても冷めたところで、
雑念だらけで音楽をやっているのかもしれない。
だが俺にはジャスティンの本音など
どうでもいい。

アイドルは存在のシンプルさが素晴らしいと思う。
アイドルの体は水を入れたコップだ。
ゴミの浮いた汚れた水など飲みたくない。
それは透明でなければならないのだ。

透明に見えるということが大切で、
それは感情的でなければならない。
むっつり黙って気どっている人間は、
俺にとってはペンキを塗りたくった壁だ。
沸点を超え、
熱さが冷気に変わるような、
そんなエモーショナルな存在を観たい。

ジャスティンはそこまではいっていないが、
彼が世界を憎んでいたらいいなと思う。
ファンのことなど大嫌いなのに、
あの歌をうたっていたらグッとくる。
それは人間の二面性が面白いとかいう
ありがちなことを言いたいのではない。
究極の(シンプルな)愛を観たいのだ。
わかりづらい表現になってしまうが、
音楽のひとに対する愛である。



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2011年02月14日

新しい朝





古いものを捨てることについてRと話していた。
(これはRが読んだエッセイなんだけど)
70才の女性がこれまでの、
自分の身の回りにあったものを処分する話だ。
それは再び新しいことを始めるということで、
膨大なエネルギーを必要とするということ。
生きていればいるほど蓄積してきたものが
自分を作っているという事実があるから。
だから古いものを捨てるというのは、
“破壊”と“創造”という、
人類がくり返す伝統的な行為なのだ。

70才の女性はものを捨てることによって、
現世の終わりを視野に入れると同時に、
新たなエネルギー、
生きるモチベーションを手にいれているのかも。

俺の最近のHIPHOP熱も同じだ。
これまで自分が聴いてきたロックを聴くときには
感じなくなった新鮮な刺激を感じる。
俺なんて90年代が青春みたいなものだから、
そのときにHIPHOPに夢中であれば、
リアルタイムでその進化を楽しめただろうに。
でも、今だから興味が持てるのだ。
俺は歴史のあるものの方が好きだから。

とにかく知らないがゆえのHIPHOPは
俺のなかの何かを燃やす。
自分が生きているこの世界が新鮮に見える。
自分の古いものをなくすという行為は、
汚れた水が透明になっていく感じ。
街に建物がなくなって、
風が走り抜けて行く爽快感とも言える。

新しい朝がきた。
希望の朝だ。
このフレーズって子供の頃聴いた、
ラジオ体操の曲だよな。

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2011年02月13日

暗闇でふざけてる「JAMES BLAKE」



「イギリスではJAMES BLAKEっていうDJが
 大フィーバーしているよ!」とRが教えてくれた。
俺はすでにエレキングに教えてもらっていたので、それほど驚きはしなかったが、
“大フィーバー”と言われるとなんでかなあと考える。
誰もが夢中になる音だろうか?
いや別にこれは批判ではない。
でもRもすぐに音をチェックして、
もっと聴きたいと言っていた。
きっとアルバムを買うだろう(俺が)。

JAMES BLAKEは
俺のなかで暗闇のポップシリーズにつながる。
ポーティスヘッド、


トリッキー、


BlackBoxRecorderの流れである。


暗闇と言っても暗い音だというわけではなくて、
お日様の下で聴いてもピンとこない音シリーズだ。
でも日が落ちたら人生の深いバックトラックになってくれる。
あくまで俺にとって。

で、先にあげたアーティスト達は暗闇のポップ。
つまり暗闇のなかでふざけている。
これはキケンだし、
カンが良くないと自由にふざけれない。
マジメなポップもあるけれど、
言うなればそれは商業ポップだ。
マジメすぎれば面白くなるが往々にして退屈な音である。

イギリス人のミュージシャンは
カンの良さそうなひとが多い気がする。
どちらかというとカンの良くない俺は、
たまにアメリカのゴツゴツした音を聴いてホッとする。


Rはカンがいいので、
俺のこの気持ちはわからないだろうな。
つまりこれって、
コンプレックスなのか?

James Blake

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2011年02月12日

アレンジは魂の解放

Rは「英語でアクティング」という教室に通っている。
演技の教室なのだが、
授業はすべて英語で行われる。
英語の勉強と同時に演技の勉強をするわけだ。
この教室の先生は有名な日本人俳優の
ハリウッド進出においてコーチングする方なのだ。
Rは英語を何年も勉強しつづけており、
その流れでこの教室にも行くことにしたみたいだが、
今や演技に夢中である。

Rが英語で書かれたスクリプトを俺に見せた。
この芝居の練習相手をしろというのだ。
どれどれと、そのスクリプトをチェックしてみた。
シュールなコメディのようだ。
最初はスタンダードに
Rとセリフのやりとりをしてシーンを終える。
いくら練習とはいえ、
俺も実は映画に関しては一悶着ある男だ。
このスクリプトのシュチュエーションも、
充分に面白いのだが、
もっと工夫出来るのではないかと考えた。
そして思いついた俺のアイディアを試すと、
なかなか面白いシーンになったと思う。
Rも喜んでくれた。
演技というのは自己演出であり、
その演出しだいでシーンの意味が決まるのだなと気づく。
Rが夢中になるのが少しわかる。
刺激的だ。

この感じはカバーだなと思った。
カバー・ソングのカバーである。
俺はゾンビースが好きで、
ゾンビーズの曲を彼ら(バンド自身)以上に
メロディックに切なく、
グルーヴィーに表現することは無理だろうと思っていた。
このアルバムを聴くまでは。
World of the Zombies: Tribute to Zombies
ファストバックスの
「Just Out Of Reach」には衝撃を受けた。
ゾンビーズのグルーヴィー具合はないが、
疾走感がいい感じだ。

ビートルズのモータウンナンバー
「You've Really Got A Hold On Me」も、
俺は本家よりも

(↑これはコステロ色が強い)
ビートルズのフレッシュなアレンジの方が好きだったりする。


ビートルズで言えば、
「I Wanna Be Your Man」のローリングストーンズ版は、
俺個人的にはなんとも言えないところがある。
まあこれはカバーというよりストーンズが曲をもらったので、
ビートルズ自己再現版なのだろうが、
本家ビートルズ版のほうが俺は好きだ。

その他にも好きなカバーはある。
イギーの「シー・オブ・ラブ」、
CAKEの「アイ・ウィル・サヴァイブ」、


そうだレナードコーエンのこのトリュビュートもいい。
I'm Your Fan

なにが言いたいかと言うと、
カバーソングは演出である。
他人の曲をスクリプトとして
いかに自分ならではの世界観を作るかだ。
ただ単にいじくりまわすだけでは、
面白いものにならない。
たまにあるだろう、
原曲に失礼だというくらいの退屈なカバー。
自分の世界観もなく、
原曲のメロディの良さもない。
これは演出能力のなさだ。

自己演出とはエゴをなくさなければ
いいものが出来ないのではないだろうか。
他人が自分をどう観るかではなく、
目の前の作品にどういった魂を込めれるか。
悲しみ、怒り、喜び、
作品にあった感情を選択肢し、
とことん解放させるのだ。
そうすることにより
魂のこもった作品(曲)に触れたひとたちも
感情が解放される。
それが出来るのがアーティスト、
もしくはエンターティナーなんだろう。

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2011年02月11日

俺の女々しさと音楽

詩人と女たち (河出文庫)



俺は女々しい。
女に対して優しくないし、寛容ではない。
口ゲンカになれば相手の言うことを
かき消すかのようにわめいたりする。
あとどういうところが女々しいかと記すと、
とても長くなるだろう。
このことを細かく具体的に書かないくらい
女々しさには自信がある。

男らしくなりたくないのかと問われると、
「そうかもな」と答えてしまうくらい
女々しい俺である。
だがこれまでの俺のアイドルを振り返ると、
みんな男らしい。
例えばトム・ウエイツ。
イギー・ポップ。
キャプテン・ビーフハート。
ミュージシャンだけではない。
チャールズ・ブコウスキー。
ジム・トンプスン。
ウィリアム・バロウズ。

バロウズを男らしいととらえるかどうか、
疑問に思ったが、やはり男らしいだろう。
自分の生き方に一本筋が通っているからだ。
“女は神の失敗作”とまで言ったひとではあるが、
女性に対し紳士な姿勢でいたと思う。たぶん。
女性に対してうんぬんよりも、
社会常識にしばられずに、
自分のアイディンティティが確立されていたところが、
格好良いのである。

男らしさというのは、
俺みたいに自分が調子の良いときだけ、
女性にやさしくするようなムラのある態度ではなく、
普段無愛想でも本当に女性が救いを求めているときに
やさしくあるものだ。
それは自分というものが確立していないと出来ない。
揺らぎない男として、自分はこうだ! 
というのがないと。
金を持っている持っていない、
地位のあるなしに関係なく、
男として自分はこうであるという
なにがあっても曲げない心意気が、
男らしさなのだろう。

俺のアイドルであるミュージシャン達も
作る音楽のフォルムは変わったとしても、
音楽からにじみでるそのひとらしさは強烈だ。
強烈であろうとしているのではなく、
自分にとってのアートを追求した結果そうなった。

俺は何が言いたいのかというと、
男らしくない俺ではあるが、
実は男らしさに憧れているということだ。
そして俺は女々しいという事実を考えるに、
これまでなにも追求してこなかったということか。

イギー・ポップのこれまでのキャリアを見ると、
「辛抱強さ」というのがある。
俺に欠けているのもこれかもな。



俺のアイドルで生き残っているのは、
トム・ウエイツとイギー・ポップのみ。
この2人はジム・ジャームッシュの映画、
コーヒー&シガレッツで共演している。
この作品を俺はまだ観ていない。

コーヒー&シガレッツ [DVD]

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